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アユタヤー歴史公園の見どころ(3)    島内・島外南東部  このページの内容 
◇ワット=ヤイチャイモンコン
◇ワット=スワンダーラーラーム
◇ペット砦
◇ワット=パナンチューン
◇日本町跡
 
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◆川から見たアユタヤー
◆アユタヤー歴史公園案内
◆アユタヤー朝の歴史
Map of Ayutthaya Historical Park アユタヤー歴史公園全体図
クリックすると拡大図が別画面で開きます
  チャオプラヤー川を遡上してきた船がアユタヤーに最初に着くこの辺りは、貿易や通商の拠点としてアユタヤーの繁栄を支えた。17世紀前半に権勢を極めた日本町をはじめ、外国人の居住区も多く集まっていた地域である。チャオプラヤーの流れとともに巡りたい。

◇ワット=ヤイチャイモンコン วัดใหญ่ชัยมงคล
ワット=ヤイチャイモンコン クリックで拡大 入口近くに涅槃仏が横たわる
  バンコク方面からアユタヤーの街に近づくと、この寺院の巨大なチェディー(釣り鐘型の仏塔)が最初に目に入ってくる。高さ92mというアユタヤーで一番の高さを誇るチェディーは、16世紀末のアユタヤー中期の代表的建築で、途中まで登ることができる。このほかにも、回廊跡に並ぶ白い座仏や大きな寝仏など見どころも多く、常に内外の観光客でにぎわっている。なお、地元の人は短く「ワット=ヤイ」とよんでいる。
ワット=ヤイチャイモンコン クリックで拡大 仏塔はアユタヤーのランドマーク
 詳細   アユタヤー朝の開祖・ラーマーティボディー1世が、スリランカでの修行から帰国した僧侶のために、1357年に建立した寺院。その流れをくむ「パーケーオ派」の大僧正が代々居住したので、「ワット=パーケーオ」とよばれた。その後1593年、ナレースワン大王はビルマの副王との騎象戦に勝利した記念に大きなチェディーを建て、「チェディー・チャイモンコン(繁栄をもたらす勝利という意味)」と名付けた。以後、現在の寺院名になったという。なおこのチェディーは新築されたものか、それまであった仏塔に増築されたものか不詳である。
  アユタヤー陥落以後寺院は荒れ果てたが、近年修復され、現在では僧侶やメーチー(白衣を着た女性の篤信者)が居住している。
ワット=ヤイチャイモンコン クリックで拡大 回廊あとに並ぶ仏像
  チェディーを囲む回廊は、60.6m×71.6mの大きさがあり、かつては屋根で覆われていたが、現在はその柱の跡が点々と残るのみである。回廊跡には仏像がずらりと並んでいるが、銘板を見ると最近寄進されたものである。チェディーの東側には本堂が再建されているが、よく見ると古い柱や壁が残っている。西側の礼拝堂跡は仏像やチェディーが並ぶが、屋根はなく芝生が植えられ花が咲く美しい庭になっている。
   入口から入って左手には、大きな寝仏が露天に気持ちよさそうに横たわっている。やはりナレースワン大王時代のものだが、その後破壊が進み、近年再建された。当時の建物を支えた柱が残っている。
  寝仏や本堂の東側は、最近ナレースワン大王記念御殿が完成し、王の像が祀られ、地元の人が多くお参りに来ている。
  入場     20B(タイ人無料)
 
ワット=ヤイチャイモンコン クリックで拡大 ブッダと弟子たち
ワット=ヤイチャイモンコン クリックで拡大 西側の礼拝堂あと
ワット=ヤイチャイモンコン クリックで拡大 北側の回廊
ワット=ヤイチャイモンコン クリックで拡大 寝仏のアップ
ワット=ヤイチャイモンコン クリックで拡大 ナレースワン大王記念御殿

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◇ワット=スワンダーラーラーム วัดสุวรรณดารารามราชวรวิหาร
ワット=スワンダーラーラーム礼拝堂 クリックで拡大 ウィハーン(礼拝堂)
ワット=スワンダーラーラーム本堂(ウボーソット) クリックで拡大 ウボーソット(本堂)
  島の南東部、チャオプラヤー川とパーサック川が合流する辺りにある。本堂(ウボーソット)と礼拝堂にはたくさんの壁画が描かれているので、一見の価値がある。この寺院は遺跡ではなく、僧侶が常駐する現存の寺院である。
 詳細   現在のバンコク朝(ラッタナコーシン朝)の開祖・ラーマ1世王の父親が、アユタヤー朝末期のボーロマコート王の時代に建てた。そのため、今に至るまで王家の信仰が厚い。本堂と礼拝堂、釣り鐘型のチェディーが1基並んでいる。
本堂の壁画 クリックで拡大 本堂の壁画。本生譚などが描かれる
  本堂の壁画はラーマ3世時代のもので、おもに仏教関係の絵画、礼拝堂のものはラーマ7世時代のもので、ナーラーイ王にまつわる故事が描かれている。
  なお、普段は閉ざされていて見られない、と書いてあるガイドブックもある。私が行ったときはたまたま本堂が開いていて、お参りをしていたら60歳過ぎのお坊さんがやって来て、壁画の説明をしてくれた上に、わざわざカギを開けてくれて隣の礼拝堂も見せていただいた。さらに、日本人のお坊さんの墓があるからと、寺院の奥の墓地に案内までしてくれた。それほど古くないその墓標には「シゲナガ」さんとあった。こういう幸運を期待してはいけないが、実際行ってみなければ壁画は見られないのも事実だ。
  入場     無料
ワット=スワンダーラーラーム クリックで拡大 本堂の内部
ワット=スワンダーラーラーム クリックで拡大 本堂の壁画(2)[少し見にくい]
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◇ペット砦(ポムペット)  ป้อมเพชร
ペット砦(ポムペット) クリックで拡大 世界とつながるアユタヤー
ペット砦(ポムペット) クリックで拡大 アユタヤーの南を守る
  チャオプラヤー川とパーサック川の合流点にある、大きな砦あと。砦だけあって、ここからの川の眺めはすばらしい。
 詳細  ビルマ軍の攻撃を受けたチャクラパット王は、アユタヤーの城壁を建設した。続いてマハータンマラーチャー王は都城を東方、パーサック川沿岸まで拡大したので、城壁は12.4kmにも及んだという。そして城壁には合計22か所の砦が設けられ、王都の防衛にあたった。
  城壁も砦も西洋の様式が取り入れられているので、おそらくアユタヤーにいたポルトガル人が建設に協力したと考えられている。
  入場     無料
ペット砦(ポムペット) クリックで拡大 ペット砦(ポムペット)
ペット砦(ポムペット) クリックで拡大 砦と監視塔
ペット砦(ポムペット) クリックで拡大 砦からチャオプラヤー川を望む
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◇ワット=パナンチューン  วัดพนัญเชิงวรวิหาร
ワット=パナンチューン クリックで拡大 信仰を集める金色の大仏
  金色の大仏がおさまる大仏殿は、いつ行っても線香の香りと信者の熱気にあふれている。この寺院はアユタヤー朝ができる以前から、河川交通至便なこの地にいた中国人によって信仰されていたという。
  大仏殿の右手、川に突き出た桟橋は魚にえさをやる場所になっている。10Bでえさを買って川にまくと、ものすごい数のナマズに似た魚がえさを奪い合う。チャオプラヤー川の計り知れない豊かさを感じる。
 詳細  この寺院の建立は古く、アユタヤー建国の26年前、1324年にさかのぼる。アユタヤー(アヨータヤー)の長・サーイナームプンのもとに、中国皇帝の娘・ソイドークマークが嫁いできたが、身分相応の歓迎を受けないことに不満を持った彼女は自殺した。サーイナームプンは悲しんで彼女の葬儀を行い、その地にこの寺院を建立したという。今も大仏殿の右手の中国風の廟内には、ソイドークマークとされる女性像が祀られている。
  これはあくまで言い伝えで、史実かどうか疑問だが、この寺院と中国系の人々との関係を想起させる。少なくともアユタヤー建国以前から、この辺りには一定の数の中国人が居住していたと思われる。
  大仏は高さが19mあり、地元の人は「ルアンポートー」、中国系の人は「サムポーコン」(三宝公)とよんでいる。三宝公とは、15世紀前半に南海大遠征を行った明の将軍・鄭和(ていわ)のことで、東南アジアの華人たちは彼を自分たちの祖先と考え、神格化してそう呼んでいる。大仏は、ビルマ軍によるアユタヤー陥落の時に、目から涙を流しお腹まで達したと言い伝えられている。1901年に火事で寺院も大仏も被害を受けたが、その後修築され現在に至っている。
ワット=パナンチューン クリックで拡大 対岸から船で渡ると便利
ワット=パナンチューン クリックで拡大 ソイドークマークが祀られる中国廟
ワット=パナンチューン クリックで拡大 何だ、これは? 答えはクリック
  入場     20B(タイ人 無料)
ワット=パナンチューン クリックで拡大 陸路からの入口
ワット=パナンチューン クリックで拡大 中国風の廟の中
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◇日本町跡 หมู่บ้านญี่ปุ่น
長政の石碑 クリックで拡大 日本人町と長政の説明がある石碑
  ワット=パナンチューンから1kmほど南の町はずれにある。いつ行っても日本人観光客とそれに群がる土産売りがいる。(それ以外の人は滅多にいない。)最近整備され、こぎれいな公園になった。右手奥には「泰日協会展示館」(山田長政の銅像あり。あとは土産物屋)、左手手前には「アユタヤー歴史研究センター別館」(本館に比べ、ずいぶん見劣りがする)という、コンクリート製の建物が建っている。
 詳細  日本町は遅くとも17世紀始めのナレースワン大王の時代にはあったようだが、急速に発展するのは17世紀前半のソンタム王のときである。対岸にはポルトガル人町、隣にはイギリス人町とオランダ人町があったこの地には、日本から貿易商人をはじめ、日本を追放されたキリシタンや、新天地を求めてやってきた浪人たちが次々と来航し、1000~1500人の日本人が約1km×500mの居留地に家を並べていたという。そのころの日本町の頭領であり、王に仕える日本人義勇軍のリーダーだったのが、山田長政(タイでの欽賜名は、オークヤー=セーナーピムック ออกญาเสนาภิมุข )である。
  長政は、鹿皮や鮫皮などを日本へ輸出する大商人として蓄財に励む一方、アユタヤーと日本(徳川幕府)の外交の仲介を行ったり、800人の兵力を誇る日本人義勇軍の総大将として活躍し、アユタヤーの宮廷に影響力を持つようになった。ソンタム王が亡くなり、王位継承争いが起こると、時の実力者・チャオプラヤー=シースリヤウォンは、長政を南方のナコーンシータンマラートの反乱鎮圧に派遣し、当地の太守に任命することで、長政の影響力を排除した。そしてシースリヤウォンは自ら王に即位した。これがプラサートトーン王である。長政は1630年ナコーンシータンマラートで亡くなるが、反乱鎮圧の際負ったけがが原因とも、毒殺されたとも言われている。
  一方日本町は、プラサートトーン王によって焼き打ちされ、日本人も難を逃れて他へ移住したが、3年後に日本町の再建が許されると復活し300~400人が住むようになった。しかし日本の鎖国強化や、オランダによる鹿皮の専売特許獲得などで、しだいに日本町は衰えた。17世紀半ば、ナーラーイ王に協力した日本人義勇軍40人がいたが、このころを最後に日本町の記録は途絶えた。
  入場     無料。アユタヤー歴史研究センター別館は20B。
 
現在の日本町跡は、1935年に泰日協会が発掘してその一部を入手したもので、かつては「アユチア日本人町の跡」と刻まれた石碑と「山田長政神社」が建つのみだった。今はきれいに整備されたが、かえって長政の時代に思いを馳せるのが難しくなってしまった気がする。 上へ戻る

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