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    アユタヤーの歴史  このページの内容 
アユタヤー前史
アユタヤー朝前期(1351-1488)
アユタヤー朝中期(1488-1629)
アユタヤー朝後期(1629-1767)  
 関連ページへのリンク 
◆見どころ
 島内中心部
 島内西部および島外西部・南部
 島内・島外南東部
 島外北東部--このページ
◆川から見たアユタヤー
◆アユタヤー歴史公園案内
◆アユタヤー朝の歴史--このページ
Map of Ayutthaya Historical Park アユタヤー歴史公園全体図
クリックすると拡大図が別画面で開きます
  14-18世紀にかけて栄えたアユタヤー朝33代、417年の歴史を年表にまとめました。 ※王名のあとの(  )内は在位年代を示す。
▼寺院名・遺跡名などは、そのころ建てられたものを示し、それぞれの紹介ページにリンクしている。

で き ご と
他のアジア諸国

6-11世紀 モン人が支配するドヴァーラヴァティー王国の支配下。
11-13世紀 クメール帝国(アンコール朝)の支配。

12世紀 アンコール=ワット創建


13世紀 クメール帝国の衰退にともない、各地に小国家が起こる。
   チャオプラヤー川下流域に、スパンブリーとロップブリーが台頭。
   アユタヤーは河川の結節点として、小さな町があった。
1257 スコータイ朝成立
1262 チェンセーンのマンラーイ王、チェンラーイ建都
1292 マンラーイ王、新都チェンマイを建設
14世紀 アユタヤーは「アヨータヤー」とよばれていた。
▼ワット=パナンチューン(1324年)
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王  名 で き ご と 他のアジア諸国






[初代]
ウートーン
(ラーマーティボディー1世)

อู่ทอง (รามาธิบดีที่ 1)
(1351-69) ウートーン王 クリックで拡大
◆アユタヤー朝の建国(1351年)
王の出自には諸説ある。1331年にスパンブリーの王女と、続いて1340年にはロップブリー・アヨータヤーの王女とも結婚し、この地域の覇権を握る。
1347年,現在のワット=プッタイサワンの地にウィエンレック宮殿築く。
1351年3月4日、島内の新宮殿に移り即位。この町を「クルンテープ・タワーラワーディー・シーアユッタヤー」と命名。
◆他のタイ族の小国家を糾合
ラーメースワン王子(2代王)にロップブリーを、王妃の弟・パグワ(3代王・ボーロマラーチャティラート1世)にスパンブリーを統治させる。スコータイ、チェンマイ、ナコーンシータンマラートなども属国化。
▼ワット=プッタイサワン
▼ワット=ヤイチャイモンコン(1357年)
1353 ファーグム王がルアンパバ ーンで即位、ラーンサーン王国成立
1368 元にかわり、明建国
[2代]
ラーメースワン
ราเมศวร (1369-70,[1代]の子)
クメール帝国の都・アンコール=トムを攻撃(1369年)したが、失敗。スパンブリーのパグワ พะงั่ว (3代王・ボーロマラーチャティラート1世)の協力を得て、クメール帝国を占領した。このいきさつから王を退き、パグワに譲位。自分はロップブリーの統治を担当する。
▼ワット=プララーム







[3代]
ボーロマラーチャティラート1世
บรมราชาธิราชที่ 1 (1370-88,[1代]の王妃弟(兄?))
1378年 ナコーンサワン、ピッサヌローク、カムペーンペットを占領、スコータイ朝は降伏、アユタヤーの属国となる。さらにチエンマイ、アンコール=トムを攻撃(1388年)
[4代] トーンラン
ทองลัน (1388,[3代]の子)
わずか7日の在位で、ロップブリーのラーメースワンに処刑される。






[2代=重祚]
ラーメースワン
ราเมศวร
(1388-95)
4代王を処刑し、ウートーン王家再興。
1390年 チエンマイを占領し、住民を南部のナコーンシータンマラートなどへ入植させる。
▼ワット=マハータート
14世紀末 マラッカ王国成立
1392 高麗にかわり、朝鮮(李朝)成立
[5代]
ラーマラーチャーティラート รามราชาธิราช (1395-1409,[2代]の子)
4代王トーンランの弟・ナコーンイン นครอินทร์(のちのインタラーチャーティラート王)にスパンブリー統治を任命。 1397 足利義満、金閣の造営開始
1404 日明貿易開始
1405 明の鄭和、南海遠征を始める(-33、7回)







[6代]
インタラーチャーティラートอินทราชาธิราช(1409-24,[4代]の弟)
5代王を追放。ロップブリー王家とスパンブリー王家の争いに終止符。
[7代]
ボーロマラーチャーティラート2世
(チャオサームプラヤー)

บรมราชาธิราชที่ 2 (เจ้าสามพระยา)
(1424-48,[6代]の子)
父王の死後、王位をめぐって長子チャオアーイと次子チャオイーの兄弟が騎象戦を戦ってともに戦死、その結果第三王子が王に即位。
◆アンコールを占領(1431-32年)
 クメール帝国のアンコール=トムを攻略。カンボジアから多数のテクノクラートや住民をアユタヤーへ連行。この結果、政治・芸術などへのカンボジアの影響強まる。
◆スコータイ朝消滅(1438年)  ◊◊スコータイ朝の歴史→here
 スコータイ王マハータンマラーチャー4世が亡くなり後継者が絶える。スコータイの先王・マハータンマラーチャー3世の王女との間に生まれたラーメースワン王子(当時7歳。のちの8代王・ボーロマトライローカナート)にピッサヌロークの統治を任命。スコータイ朝は消滅、アユタヤー王国の一地方となる。
▼ワット=ラーチャブーラナ(1424年)
▼ワット=マヘーヨン(1438年)
1428 黎朝大越国成立
1429 中山王尚巴志、琉球王国を建国
1441 ラーンナータイ(チエンマイ)のティローカラート王即位(-87)
[8代]
ボーロマトライローカナート
บรมไตรโลกนาถ
(1448-88,[7代]の子)
40年の在位期間は、アユタヤー王の中で最長。
1463年 ピッサヌローク遷都。ラーンナー王国(チエンマイ)と対抗。
スコータイのリタイ王(在位1347~69?)に帰依し、彼に倣ってピッサヌロークで8ヶ月間出家。スコータイの仏教政策を取り入れる。
◆サクディナー制を定める
 社会的地位を水田の面積で表した制度で、皇太子は10万ライ(1ライ=1600平方メートル)、官僚は400~1万ライ、一般人は10~25ライ、奴隷・乞食は5ライなどと規定された。実際には、この面積の水田が実際に割り当てられたわけではなく、地位の上下を示す数字にすぎないとされている。ただし損害賠償の時にはこの数字が計算の基礎として使われた。この他にも中央官制の整備も行った。
▼王宮跡(現在の場所に移転)
▼ウィハーン・プラモンコンボピット(大仏の製作)
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王  名 で き ご と 他のアジア諸国







[9代]
ボーロマラーチャーティラート3世(インタラーチャーティラート2世)
บรมราชาธิราชที่ 3 (1488-91,[8代]の子)
1488年 再びアユタヤーへ遷都。
1488年 テナッセリムのタヴォイ(今日のビルマのダウェー)を占領し、インド洋に貿易拠点を確保。
[10代]
ラーマーティボディー2世
รามาธิบดีที่ 2(1491-1529,[9代]の弟)
1511年 ポルトガル人ドゥアルテ=フェルナンデスが、西洋人として初めてアユタヤーに来航。
▼ワット=プラシーサンペット(1492年、東側と中央の仏塔を建立)
▼ワット=ナープラメーン(1503年)
1510 ポルトガルがインドのゴア占領。翌年にはマラッカを占領
1526 インド、ムガル帝国成立
[11代]
ボーロマラーチャーノープッターンクーンบรมราชาหน่อพุทธางกูร
(ボーロマラーチャーティラート4世)
(1529-33,[10代]の子)
  1531 ビルマ、ダビンシュエティー王即位。タウングー朝成立(-1752)
[12代]
ラッサダーティラートรัษฎาธิราช
(1533-34,[11代]の子)
わずか5か月の在位。次王によって処刑。
[13代]
チャイヤラーチャーティラート
ไชยราชาธิราช(1534-47,[10代]の子)
5歳の先王から王位を奪う。
このころ、ポルトガル人町できる。ポルトガル人義勇軍160名が王に仕えていた。
[14代]
ヨートファーยอดฟ้า
(1547-48,[13代]の子)
生母は13代王妃のシースダーチャンศรีสุดาจันทร์。夫の死後彼女は、その情夫・ウォーラウォンサーวรวงศาとともに権力を握る。ウォーラウォンサーはヨートファー王を毒殺し、自ら王位につくが、在位6週間で処刑される。 1547 ラーンサーン王国、セーターティラート王(-71)
[15代]
チャクラパットจักรพรรดิ
(1548-69,[13代]の弟)
ウォーラウォンサーとシースダーチャンを処刑し、王位をスパンブリー王家に奪還する。
◆第1次ビルマ戦争(1548-1605)
1549年 ダビンシュエティー王率いるビルマ軍が侵入し、王子ラーメースワンを人質として連行。王妃スリヨータイศรีสุริโยทัยが男装して副王に扮して戦い、傷を負って象の上で亡くなった。この機に乗じて、カンボジアも侵入。
1555-56年 カンボジアの首都・ロヴェークを攻撃。
▼チェディー・シースリヨータイ(後世の建築との説もある)
1549 ザビエルが鹿児島に来航
1551 タウングー朝、バインナウン王即位(-81)
1556 バインナウン、チエンマイ占領。以後1781年まで、ラーンナータイ王国はビルマ支配下
1556 ラーンサーン王国、ビエンチャン遷都
1565 西、フィリピン植民地化
[16代]
マヒントラーティラート
มหินทราธิราช (1569,[15代]の子)
1569年8月 バインナウン王(タイ語名ブレーンノーン)率いるビルマ軍が、アユタヤーを占領。
▼ワット=プーカーオトーン(ブレーンノーン王が増築、1569年)






[17代]
マハータンマラーチャーมหาธรรมราชา
(1569-90)
チャクラパット王の王位奪取に協力した功によりピッサヌロークの統治を任され,チャクラパットの王女と結婚。
ビルマ軍がピッサヌロークを占領すると捕虜となり、以後ビルマに協力。ビルマの傀儡としてアユタヤーの王となる。
1573 室町幕府滅亡
1574 バインナウン、ビエンチャン占領。約10年後、ラーンサーン王国独立回復
[18代]
ナレースワン大王
นเรศวรมหาราช
(1590-1605,[17代]の子)
◆ビルマからの独立を果たす
ピッサヌローク生まれ。ピッサヌロークがビルマに占領されると、人質としてビルマのバゴー(ペグー)に連行される。
1571年 帰国。副王としてピッサヌロークを統治。
1584年 ビルマ駐屯軍を追放して、アユタヤーの独立を回復。
1593年 ビルマ軍との最大の決戦。スパンブリーでの象戦に勝利。
1604年 日本の朱印船がアユタヤーに来航。
▼ワット=ヤイチャイモンコン(メインのチェディー)(1593年)
1590 豊臣秀吉、日本を統一。朝鮮侵略(1592-98)
1600 英、東インド会社設立
1602 蘭、東インド会社設立
1603 江戸幕府成立
[19代]
エーカートッサロット
เอกาทศรถ(1605-10/11,[18代]の弟)
1608年 オランダがアユタヤーに商館を設置。タイ最初の遣欧使節をオランダに派遣。
[20代]
シーサオワパーク
ศรีเสาวภาคย์ (1610/11,[19代]の子)
1612年 イギリスがアユタヤーに商館を設置。
[21代]
ソンタム
ทรงธรรม
(1610/11-28,[19代]の子)
1623年 仏足石がサラブリーで発見。これ以後歴代の王は、年1回仏足石参りを行う。
◆日本との通商・外交関係を強化
 ▼日本町が急速に発展し、1000~1500人の日本人が居留していた。そのころの日本町の頭領、日本人義勇軍のリーダーが山田長政(タイでの欽賜名は、オークヤー=セーナーピムックออกญาเสนาภิมุข)。王は、使節を3回にわたり日本へ派遣。1636年までの間に日本からの朱印船56隻がアユタヤーに来航した。
1619 蘭、バタビア建設
1622 蘭、台湾支配(-61)
1623 英vs蘭、アンボン事件
[22代]
チェーターティラート
เชษฐาธิราช (1628-29,[21代]の子)
時の実力者・チャオプラヤー=シースリヤウォンเจ้าพระยาสุริยวงศ์ (後のプラサートトーン王)や日本人義勇軍の援助を得て、弟を処刑して即位。しかし、シースリヤウォンと対立して王位を追われ、最期は自らも処刑された。
[23代]
アーティッタヤウォンอาทิตยวงศ์
(1629,[22代]の弟)
チャオプラヤー=シースリヤウォンが擁立。1か月後に廃位。
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[24代]
プラサートトーン
ปราสาททอง
(1629-56)
ソンタム王のころ王宮部で頭角を現し、チェーターティラート王の即位を助けた功績で、カラーホーム(国防省)の大臣に任じられ、チャオプラヤー=シースリヤウォンの欽賜名を受ける。前王2人を退位させ、自ら王に即位。
◆内乱や内紛の防止、中央集権政策
 マハートタイ(内務省)にタイ中北部、カラーホームにタイ南部を管轄させ、大臣の権力の分散をはかった。
◆対外関係の調整
 王位継承に関与した山田長政を、ナコーンシータンマラート太守として派遣し、権力から遠ざけた。長政は当地で死亡。毒殺説もある。日本町を焼き討ち。ベンガル湾で幅を利かせるポルトガルに対抗させるため、オランダに鹿皮の独占権を与えたが、オランダの無法も目立った。
◆クメール式美術の再興と仏教の振興
▼ワット=チャイワッタラーナーム(1630年)
▼ワット=マハータート(メインプラーンの再建、1633年)
▼ワット=タンミカラート(チェディー)
1639 日本の鎖国体制完成
1641 蘭、マラッカ占領

1644 明滅亡,清の中国支配(-1912)
1652-74 英蘭戦争、蘭の衰退始まる
[25代] チャイไชย
(1656,[24代]の子)
在位わずか2日
[26代]
シースッタンマラーチャーศรีสุธรรมราชา (1656,[24代]の弟)
甥のナーラーイと決起して王位を奪う。在位10週間で、ナーラーイ王に追われた。
[27代]
ナーラーイ大王
นารายณ์มหาราช
(1656-88,[24代]の子)
前王2人を退位させ、王位につく。
◆親フランス政策を推進し、イギリスやオランダと対抗
1662年 フランス人イエズス会宣教師団に、教会と学校の設立を許可。
1665年 ロップブリーに副首都を置く。以後、アユタヤーよりロップブリーで過ごす時が増える。政治や外交上の諸問題から逃れるためだと推測される。
1673年 親書をフランス王ルイ14世とローマ法王に送る。
1680年 第1回訪仏使節団を派遣。船が遭難し失敗。
1683年 第2回訪仏使節団。やはり船が遭難。
1685年 王の信任厚いギリシャ人コンスタンティン=フォールコンが、マハートタイ(内務大臣=文官最高の官職)に就任。親仏政策を推進する一方、私腹を肥やす。
1685年 フランスがシュヴァリエ=ド=ショーモン率いる使節団を派遣、王にカトリックへの改宗を迫るほか、貿易上の特権を要求。帰国に際し、王はコーサーパーンら第3回訪仏使節団を同行させ、ルイ14世に謁見。
1687年、コーサーパーンらとともに、シモン=ド=ラルベ率いるフランスの大使節団がアユタヤー来訪。軍艦6隻と492人の兵隊が同行、バーンコークを占領。第4回訪仏使節団を送る。
1688年 王が重病になると、象隊長ペートラーチャーら反仏・反カトリックの貴族たちがフォールコンを捕らえて処刑。フランス軍を追放。
◆文学の発展。古典文学の基礎が作られる。他にも王は天文学に興味を持ち、月食や日食を自ら観測したという。
▼St.Joseph教会











[28代]
ペートラーチャー
เพทราชา
(1688-1703)
◆フランス勢力を追放し、危機を救う
スパンブリーのバーン・プルールワン村出身、母がナーラーイ王の乳母だったことから王に仕え、象隊長に出世。ナーラーイ王の末期、フランス勢力を追放し王位につく。
1689-1815 第2次英仏百年戦争。植民地争い。
[29代] スアเสือ
(1703-09,[28代]の子)
スアとは「虎」の意味。荒々しい性格のためこうよばれた。
[30代]
ターイサท้ายสระ
(1709-33,[29代]の子)
◆アユタヤー朝の最安定期
ターイサとは「池の端」の意味で、王が釣り好きだったためこうよばれた。
米の輸出さかん。インド、ジャワ、中国などへ輸出。
1720年 カンボジアを攻め、朝貢国とする。
▼ワット=マヘーヨン(改修)(1709-13年)
▼ワット=クディーダーオ(副王ボーロマコートによる改修)(1711-14年)
1710ころ ラーンサーン王国、3分裂(ルアンパバーン、ビエンチャン、チャムパサック)
[31代]
ボーロマコートบรมโกศ
(1733-58,[30代]の弟)
◆アユタヤー朝の最安定期
カンボジアの王位継承に介入し、属国化。
スリランカ仏教建て直しのため、2度にわたり僧侶団を派遣。
▼ワット=スワンダーラーラーム
1752 タウングー朝滅亡。アラウンパヤーがコンバウン朝(-1885)を開く
1757 プラッシーの戦い。英のインド支配強化
[32代]ウトゥムポーンอุทุมพร
(1758,[31代]の子)
 
[33代]
エーカタットเอกทัศ
(1758-67,[32代]の兄)
◆ビルマ軍の侵入でアユタヤー朝滅亡(1767年)
1760年 ビルマのアラウンパヤー王、アユタヤーを包囲。
1765年 シンビュシン王率いるビルマ軍、北方と西方から侵入し、再びアユタヤーを包囲。
1767年4月7日 アユタヤー陥落。タイは分裂。
その後
1767年8月 タークシン、東南部のチャンタブリーを占領。
1768年 タークシンがトンブリーで王に即位。旧アユタヤー朝の版図を回復。
1782年 チャオプラヤー・チャクリーが王に即位。ラッタナコーシン朝を開く。
1771 ベトナム、タイソン党革命開始
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※このページの記述は、『タイの事典』(同朋舎 1993年)を参考にしました。 リンクバー HOME Chaophraya TOP Ayutthaya TOP