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プレー 見どころ紹介 (2)  城壁外の寺院など  このページの内容 
◇セーリータイ(自由タイ)博物館
◇ワット=チョムサワン
◇ワット=サボーケーオ
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◆見どころ
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 郊外の寺院と景勝地
   ▼プレーの町並み(写真)
◆旅日記から(08年12月-09年1月)
ワット=チョムサワン チーク造りのシックな寺院 クリックで拡大 チーク造りのワット=チョムサワン 
  宿泊したパラードーンホテルで偶然見つけたセーリータイ博物館では、あらためてアジアと日本の関係を考えさせられた。また城壁外の東側には、旧市街の寺院と趣を異にするビルマ式の寺院がある。

◇セーリータイ(自由タイ)博物館 พิพิธภัณฑ์เสรีไทยแพร่
セーリータイ博物館 クリックで拡大 セーリータイ博物館
  第2次大戦中に活躍した抗日組織「セーリータイ(自由タイ)」のプレー支部長だったトーン=カンタータム氏 ทอง กันทาธรรม の息子のプチョン=カンタータム氏 ภุชงค์ กันทาธรรม が、セーリータイプレー支部のメンバーやその子孫たちと協力して、かつて父の家があったパラードーンホテルの敷地に建設した博物館。第2次大戦が終了してちょうど62回目の「タイ平和の日」にあたる、2007年8月16日、開館式が執り行われた。
  こんな静かな北タイの町で、過去の日本軍の残像に出会って驚いたが、あらためてアジアにおいて日本軍がどう認識されているか考えるよい機会になると思う。
この部分の記述は、博物館のパンフレットと2007年8月21日付「マティチョン」紙の記事を参考にした
 場所  バスターミナル近くのパラードーンホテルの敷地内
 開館  毎日
 入場料  無料
 セーリータイ (自由タイ) 
  太平洋戦争の開戦(日本軍のハワイ奇襲)とほぼ同時の、1941年12月8日、日本軍はすでに中立を表明していたタイの南部に上陸し、タイの警察や軍と交戦した。日本の圧力に屈した当時のタイ政府(ピブーンソンクラーム首相)は、日本軍の通過と駐留を認めたうえ、12月21日には日本との同盟条約に調印、さらに翌42年1月25日、英国と米国に宣戦した。
  これに対して、国内外のタイ人のなかには、戦争が長期にわたれば米英連合国側が勝利し、タイは敗戦国となり大きな困難に直面するだろうと確信した人々がいた。
  駐米大使セーニー=プラモートは、本国からの訓令を無視して宣戦を米国政府に伝えず、在米タイ人とともに1942年3月「セーリータイ」を結成し、米国政府の支持を取り付けた。英国でも同様の抗日組織が作られた。タイ国内では、摂政のプリーディー=パノムヨンが抗日運動を始め、米英の協力の下、しだいに国内外の運動「セーリ-タイ運動」が一体化した。セーリータイは、さまざまなルートを通じて連合国側と連絡を取り合い、軍事的、外交面、政治面で協力した。
  1943年、戦局が日本不利に傾くと、ピブーンソンクラームが辞任し、セーリータイの重要なメンバーでもあったクワン=アパイウォンが首相に就任した。クワンは表向き日本軍に協力しながら、裏ではプリディー摂政に協力した。セーリータイは軍や警察などを通して全国に拡大、36,000人のゲリラ兵を擁して抗日蜂起を準備したが、米英の許可を待つ間、1945年8月14日、日本が無条件降伏を表明、終戦を迎えた。
  その直後の8月16日、プリ-ディー摂政は米英に対する宣戦は日本に強制されたものであり、無効であると宣言した。英国はこれを認めなかったが、米国はセーリータイの活動を評価してこれを支持し、12月8日、連合国側は「タイを敗戦国と見なさず、占領されることもない。タイと各国間の関係は戦争以前の元通りに戻る。」と宣言し、タイは敗戦国の扱いを免れた。
参考にした資料
「タイの事典」同朋舎
「新版 東南アジアを知る辞典」平凡社

セーニー=プラモート
เเสนีย์ ปราโมช 1905-97
王族、法律家、政治家。駐米大使、首相(1945-46)。民主党を結成、党首。学生革命(1973)後に再度首相に就任する(1975-76)が、1976年「血の水曜日事件」によるクーデタで解任。
バンコクには、弟のククリット=プラモートが住んでいた家が一般に公開されている。
 
プリーディー=パノムヨン
เปรีดี พนมยงค์ 1900-83
法律家、政治家。人民党を結成、1932年の立憲革命を指導。タムマサート大学創設。首相在任(1946)中、国王ラーマ8世の怪死事件が発生し総辞職した。
 
1943年には、ピブーンソンクラーム首相も日本の敗戦を確信しており、セーリータイの活動に暗黙の了解を与えるとともに、同年東京で開催された大東亜会議を欠席した。

 プレーにおけるセーリータイ 
  プレーは、北タイにおけるセーリータイの中心地だった。プリーディー=パノムヨン氏とトーン=カンタータム氏が、仏暦2487(西暦1944)年9月に最初の作戦を始めた時の中心人物だった。それは「ホットフート作戦」とよばれ、2人の軍人が落下傘で降下し、作戦司令部をノーンムアンカイ村に築くことが任務だった。
  その後も3回の降下作戦が行われ、作戦司令部の支援や、武器、食料、薬の運搬から、外国人やタイ人の訓練を担当する教官をプレー市へ送り届けた。プレー市におけるセーリータイは、およそ500名の隊員によって、日本軍陣地の情報収集、情報の発信、米国製武器の保管と軍事訓練などを行っていた。
 展示品 
  セーリータイの歴史やメンバーの活動を物語る、持ち物や日用品、さまざまな武器、衣服や写真などが展示されている。人形を使った再現や実物、写真の展示が多いのでわかりやすい。
・当時の自転車--ノーンムアンカイ村からバンコクまで徒歩、自転車、列車と7日かかってモールス信号を習得しに行った。
・キャンプの再現--ハンモックで休む米兵、信号を送る米兵など。
・日本軍の降伏式--軍刀をセーリータイの要員にわたす儀式を再現。軍刀も展示されている。
・原爆「リトルボーイ」(広島へ投下)、「ファットマン」(長崎へ投下)の模型--残念ながら、ここでも原爆は肯定的に展示されていた。
ヨム川に沈んだ飛行機の残骸は残念ながら回収できず、古鉄として切り売りされてしまったが、その後デンチャイの騎兵第12大隊によって回収されたという。

シンガポールの博物館でも、原爆は日本軍政からの解放を意味するものとして、原爆の大きな写真が肯定的に展示されていた。
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◇ワット=チョムサワン วัดจอมสวรรค์
  仏暦2437(西暦1894/95)年、ビルマからプレーに商売にやってきたギオ(タイヤイ)の人々によって、ビルマの建築様式で建てられている。仏暦2445(西暦1902)年のギオ反乱事件によって寺院は打ち棄てられ荒れ果てたが、のちにタイヤイの人々によって修復された。
  寺院はすべてチーク造りで、黒とレンガ色に着色され、とても印象的なデザインである。天井、柱は色ガラスで飾られているが、中はガランとしていた。
  寺院左手には、レンガがむき出しになった白い仏塔と、もっと古いものと思われる仏堂がある。仏堂の中はビルマ風の白い仏像が安置されていた。
寺院を裏手から見る クリックで拡大 寺院を裏手から見る 
寺院の内部 ガランとしている クリックで拡大 寺院の内部 ガランとしている 
ガラスで飾られた天井 クリックで拡大 ガラスで飾られた天井 
 場所 
旧市街の東にあるバスターミナルの北。大きな通りに面している
古い仏塔と仏堂(手前) クリックで拡大 古い仏塔と仏堂(手前) 
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◇ワット=サボーケーオ วัดสระบ่อแก้ว
ビルマ式の寺院 クリックで拡大 ビルマ式の寺院
  この地に住んでいたビルマ人のポー一族によって、仏暦2419(西暦1876/77)年建てられ、修復されてきたビルマ式の寺院。一時僧侶のいない荒れ寺になっていたが、仏暦2508-09(西暦1975-6)年にビルマ人の住職が就任した。
  ワットチョムサワンと同じように、ビルマ様式の特徴を持った礼拝堂、本堂など。屋根は元は木でふかれていたというが、現在はトタンぶきになってしまっている。礼拝堂に入ると、正面に本尊の仏像が置かれている。大理石製で、マンダレーからもたらされたらしい。ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダや、この寺院で行われたボイサーンローン(タイヤイ族の風習。少年の得度式)の写真も飾られており、他のタイの寺院との違いを感じさせる。
マンダレーからもたらされた仏像 クリックで拡大 マンダレーからもたらされた仏像
礼拝堂内部 にぎやかな飾り付け クリックで拡大 礼拝堂内部 にぎやかな飾り付け
仏塔と本堂(右) クリックで拡大 仏塔と本堂(右)
 場所 
旧市街東側の濠の外側近く
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