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イーサーン南部のクメール遺跡(1)  カオプラウィハーン ปราสาทเขาพระวิหาร
( プレアヴィヒア Preah Vihear )
 このページの内容 
◇カオプラウィハーンの建設
◇カオプラウィハーンへの道、行き方
◇カオプラウィハーンの見どころ
◇カオプラウィハーン雑感
◇カオプラウィハーンをめぐる近代史
 関連ページへのリンク 
◆見どころ
 カオプラウィハーン
 パノムルン
 ムアンタム
 その他の遺跡(作成予定)
旅日記から・・・・ウィエンチャン→ルアンパバーン '99.12(3ページ)
A Cambodian flag at PreahVihear, click to enlarge 遺跡(第1楼門)で誇らしげにひるがえるカンボジア国旗
  タイ・カンボジア国境の断崖上に立つ寺院。1962年国際司法裁判所はカンボジアに帰属するという裁定を下したが、タイ側からアクセスした方が容易だ。カンボジア語ではプレアヴィヒアという。
 9-12世紀にかけて建設された壮大なクメール建築で、それ自体も興味深いが、他のクメール遺跡と決定的に違うのは、断崖上に建つ寺院から開ける雄大なクメール平原の眺望と、 激しい内戦の傷跡との奇妙なコントラスト(たとえば、遺跡の一歩外は地雷原)だろう。1998年以降ようやくコンスタントに開放されるようになった。
2012年現在、タイ・カンボジア間の国境紛争のため、タイ側からは行けないようだ。

◇カオプラウィハーン(プレアヴィヒア)の建設
Cliff where PreahVihear stands, click to enlarge 寺院が建つ高さ500mの断崖
右側はカンボジアの大平原
創建 (9世紀)
  カオプラウィハーンは、カンボジアの平原から高さ500mの切り立った崖の縁に立っている。古代の人がこの場所に何か神聖なものを感じたことは、実際この場に立てば、容易に想像できる地形だ。
  9世紀末、カンボジア・アンコール朝のヤショヴァルマン1世 Yasovarman I  (在位889-910年ころ)の時代、その一族がこの地を須弥山(しゅみせん、スメール山。インド的世界観で世界の中心にそびえるという山)になぞらえて、霊験あらたかなシヴァリンガを祀ったという。
本格的建設 (11-12世紀)
  以後、12世紀終わりのジャヤヴァルマン7世 Jayavarman VII (在位1181-1218)まで、約300年にわたって寺院はつくられたが、多くはスールヤヴァルマン1世 Suryavarman I (在位1006-50年)と、スールヤヴァルマン2世 Suryavarman II (在位1113-50年)の時代に建てられたものである。
  スールヤヴァルマン1世は、この地に住むチャム・クメール・スワイなど様々な住民たちの融合をはかるため、シヴァリンガを祀る神殿を建築した。つまり、地元の信仰を王朝の宗教に取り入れることによって、信仰を一つにまとめ、クメール平原の住民とドンラック山脈周辺の住民の間で政治的、文化的コンセンサスを得ようとしたのである。それは、この地の住民がクメール帝国の権力を受け入れるという意味でもあった。王はこの地域のリーダーたちを寺院に来させ、シヴァリンガに対して忠誠を誓わせている。
   またこの地で発見された碑文には、スールヤヴァルマン2世が師事していたブラフマンがこの寺院に関心を持ち、黄金のナタラージャ(踊るシヴァ神像)を寄進したことが書かれている。
寺院をめぐる近現代史、タイとカンボジアの争いについては、こちらgo
ヤショヴァルマン1世
  今日のアンコールワットの近く、プノムバケンの丘に寺院を建て、環濠都市ヤショダプラを建設した。
スールヤヴァルマン1世
  仏教徒と伝えられる。西バライの建設を始め、領域をロップブリーまで拡大した。
スールヤヴァルマン2世
  アンコール=ワットを築いたアンコール朝全盛期の王。チャムパー、ヴェトナムへ遠征、チャオプラヤーが上流域からマレー半島北部までを支配した。
ジャヤヴァルマン7世
  仏教徒。混乱した国内を統一し、ムアンシン、スコータイ、チャムパーなどを支配する大帝国となる。宗教都市アンコール=トムほか、数多くの寺院を造営した。幹線道路網を整備し、121か所の宿駅、102か所の施療院を建設した。 上へ戻る

◇カオプラウィハーン(プレアヴィヒア)への道
Entrance of PreahVihear, click to enlarge 寺院の入口ゲート
(2003年訪問時の記録)
  ウボンからチャーターした車で、約2時間。カオプラウィハーン国立公園入口ゲートで、入園料(外国人200B、タイ人20B、自動車40B)を支払う。つづいて警察(国境警備隊?)のチェックがあり、運転手さんは身分証を預けていた。さらに山道を登ること数分、広い駐車場を兼ね備えたビジターセンターに到着する。
  そこから歩いて国境へ向かう。観光客を待ち構えていたカンボジアの子どもがたくさんついてきた。ヘリが着陸できるようになっているやたら広い道路を5分くらい歩くと、鉄の柵でできた幅2mほどの粗末なゲートが見える。どうやらこの鉄柵が国境らしいが、係官はいないし、緊張感もない。
  カンボジアに「入国」すると広場があって、手前の小屋で入場料5米ドルを払う(タイ人は50B)。パスポートのチェックなどは全くない。広場にはおきまりの土産物屋や飲み物屋が並んでいる。広場の向こうに「カンボジア王国 プレアヴィヒア」と書いた立派なゲートが立っている。係員にチケットを見せてゲートを通過する。いよいよ長い間閉鎖されていた「幻の寺院」だ。
行き方
(1)タイのウボンラーチャターニーまたはシーサケットからバスでカンタララックへ。ともに60kmあまり。ここから、a)ソーンテーウやバイタクをチャーター、片道約30km。または、b)乗合ソーンテーウでバーンプームサロンへ行きバイタクで、片道7-8km。
(2)ウボンラーチャターニーまたはシーサケットからソーンテーウか自動車をチャーター。いちばん楽だが値は張る。
(3)カンボジアから。公共交通機関はないようなので、近くの町(アンロンヴェンなど)から車をチャーター。
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◇カオプラウィハーン(プレアヴィヒア)の見どころ
石段とナーガ
  入口ゲートをくぐるとすぐ石段になっている。全部で162段、幅8m、長さは75.5mという。両脇は四角い石が並べられ、その上に置かれた小さな獅子の像が参詣者を見守っている。石段はところどころ崩れていてかなり歩きにくい。登り切ると両側に7つの頭を持つ竜王ナーガが飾られた橋(実際には広場、幅7m、長さ31.8m)に出る。クメール建築ではおなじみのものだ。
Gopura V of PreahVihear, click to enlarge 第5楼門
第5楼門
  この壮大な寺院は、手前の第5楼門から断崖そばの第1楼門までが山の斜面に沿って、約800mの一直線上に並んでいる。
  ナーガの橋に続く第5楼門は半分倒壊しており、石段をおそるおそる登っていく。何本かの石柱と破風が残るのみで、本来の姿は想像しにくい。ところどころに赤い顔料が残っていて、当時の華やかな色合いが少しだけ想像できる。楼門上部にはカンボジア国旗が誇らしげにひるがえっていた。
第4楼門
  第5楼門から緩やかな上り坂を行く。長さ275mの参道の両側には、かつて柱が並んでいたが、みな倒れてしまっている。第4楼門は横39m、縦29.5mの割と大きな建物で、やはりかなり崩れている。しかし南側には美しいレリーフが数点残っている。破風の部分にある「乳海撹拌(にゅうかいかくはん)」は、ここカオプラウィハーンで最も優れたものと言われている。その下のリンテルには、パノムルンのものとよく似た「横たわるヴィシュヌ」が見られる。いずれも他のクメール寺院でもよく見られるが、この寺院がくぐり抜けてきた戦乱を思うと感慨もひとしおだ。
Gopura IV of PreahVihear, click to enlarge 第4楼門。参道のシヴァリンガを模した柱はみな倒れてしまっている
Gopura IV of PreahVihear, click to enlargeGopura IV of PreahVihear, click to enlarge
第4楼門南門。上の破風に「乳海撹拌」、その下のリンテルに「横たわるヴィシュヌ神」のレリーフが残る(右は拡大写真)
Gopura III of PreahVihear, click to enlarge 第3楼門南側
右壁面に無数の銃弾のあと
Gopura III of PreahVihear, click to enlarge 第3楼門。左右に4つの建物が付属し、横に長い
手前は第2楼門
第3楼門と祠堂
  さらに進むと第3楼門が現れる。この寺院で最も大きく、また最もよく保存・修復がされている建物で、外側は原形に近い形で残っている。中央の祠堂をはさんで、左右には回廊状に4つの建物が付属し、幅約40mと壮観である。祠堂の破風やリンテルには多くのレリーフが残されているが、一方では銃弾のあとと思われる小さい穴がたくさんあった。
Gopura II of PreahVihear, click to enlarge 第2楼門の偽窓から、第3楼門をながめる
第2・1楼門と主祠堂
  第3楼門の南側を出て、露店の並ぶ石畳の道を30mも行くと、いちばん奥まった場所にある建物群にたどり着く。ここが一番高いところにあり、遺跡入口から120m登ったことになる。
  第2楼門は、クメール建築独特の偽窓が残っているが、上部はかなり崩壊が進んでいる。その先、回廊につくられた第1楼門をくぐるとようやく主祠堂にたどり着く。ここもかなり崩壊し、周辺に石材がゴロゴロしているが、中に入ると仏像の絵と祭壇が備え付けられ、お坊さんが1人みえた。入口には、地雷のせいか片足のない若い男性が線香を売っていた。その男性から線香を買ってお参りする。
Main sanctuary of PreahVihear, click to enlargeMain sanctuary of PreahVihear, click to enlarge主祠堂。かなり崩壊している。(左)南側、(右)東側
Main sanctuary of PreahVihear, click to enlarge 主祠堂(右手)を囲む回廊
Main sanctuary of PreahVihear, click to enlarge 回廊。屋根は崩れて、ない
View from the cliff of PreahVihear, click to enlarge ジャングルを縫って道が続いている
View from the cliff of PreahVihear, click to enlarge 断崖からクメール平原を見下ろす
断崖(ピア・ターディー)・展望台
  第1楼閣の後ろは、すぐ高さ447mの断崖になっている。手すりなどないので、余計に足がすくむ。端の方は土がなく、岩盤が露出している。そこに立つと、目がくらみそうな光景が広がる。岬の突端のように出っ張っているので、真下は直角に落ち込み、左右どちらを見ても地面が切れている。つまり180°以上の広角で絶景が広がっているのだ。少し視線を上に起こすと、この辺りと同じような赤茶色の土と疎林が、はるか向こうまでずーっと広がっている。広大なクメール平原だ。未舗装の道がやはりずーっと向こうまで続いていて、道のそばにはところどころに小さな集落らしきものが見えるが、人の動きらしきものは見えない。道にも交通量はほとんどない。
  ここに立つと、この地が昔から聖地としてあがめられてきたことや、この地に寺院を建てる気持ちがよくわかる。ここは、世界が自分の足下にあるような、そんな錯覚を起こしてしまう場所だ。
Naga Bridge of PreahVihear, click to enlarge ナーガの橋。後ろは第5楼門
Plan of KhaoPhraWihan
Main sanctuary of PreahVihear, click to enlarge 断崖から主祠堂を囲む回廊を振り返る
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◇カオプラウィハーン(プレアヴィヒア)雑感
  こんなすばらしい遺跡なのだが、一方で否が応でも戦争の傷跡が目に入ってくる。内戦時にはここにポル=ポト派の陣地があったらしく、第3楼門の東側に高射砲が1基放置されており、またその近くには兵士が暮らしたと思われる横穴があった。また、遺跡の端にはところどころにドクロマークと「危険!! 地雷!!」の赤い看板と、木や石に赤いペンキが塗られていた。この赤いラインを越えると地雷の危険があるということだ。実はこのあとバンコクで新聞(バンコクポスト紙)を読んで知ったのだが、私たちが訪れたたった2日後(2004年1月1日)、カンボジアの青年観光客が道を外れて地雷を踏んで重態に陥ったという。本当に地雷は埋まっているようだ。
  タイ側のビジターセンターで会った15歳の女の子は、結局案内しがてら、最後の断崖までついてきた。その粘り強さに根負けして、絵はがきを買ってあげたが、そのように観光客相手の子どもたちが数十人いるようだ。学校などたぶん行っていないだろう。遺跡のところどころに「私はカンボジア人に生まれたことを誇りに思う」という看板が立っていた。この子どもたちが本当にこういう風に思えるようになればいいのだが……。
  戦争は終わったあとも長い間爪あとを残す。タイ・カンボジアの対立やカンボジア内戦に振り回されてきたこの寺院が、平和の象徴になることを願う。(2003年訪問後の雑感)
A small cave for soldiers, click to enlarge 兵士が隠れた横穴(第3楼門)
Warning for mines, click to enlarge 地雷注意のどくろマーク
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◇カオプラウィハーン(プレアヴィヒア)をめぐる近代史
サヤーム(シャム)王国領となる
  14世紀、アンコール朝は衰退し、15世紀以降タイのアユタヤー朝がカンボジアの宗主国となっていた。1899年、この地を訪れた王族・チャオチュンポンソムポート殿下が「プロムウィハーン」と名付けた。これが今日の名称になった。
フランスの圧力
  1887年、フランスはカンボジアを含むインドシナ連邦を結成し、タイにも軍事的圧力を加えて支配地域を拡大していた。そんな時代の1904年、この地域の国境画定のため、ドンラック山脈の分水嶺を国境とするという原則の下、タイ・フランス両国合同の調査が始まった。その原則に従えばカオプラウィハーン寺院はタイ領になるのだが、1907年にフランスが描き、タイに提出した地図にはカンボジア領とされていた。
  しかしタイはこの地図にとくに異議申し立てをしなかった。当時の力関係もあっただろうし、今まで通りタイの住民はカオプラウィハーンに自由に行けたからでもあった。
国際司法裁判所、カンボジアへの帰属を決定
  1954年、フランス軍がカンボジアから撤退すると、タイ軍が寺院を占領した。これに対してカンボジアは1959年、ハーグの国際司法裁判所に提訴した。1962年6月15日、同裁判所は9対3の採決によって寺院のカンボジア帰属とタイ軍の撤兵、7対5の採決によって50個の遺物をタイからカンボジアへ返還することを決した。
Gopura IV of PreahVihear, click to enlarge 「私はカンボジア人に生まれたことを誇りに思う」。奥の建物は第4楼門
Warning for mines, click to enlarge 地雷注意のどくろマーク
赤い棒の向こうが地雷原
カンボジア内戦と寺院
  1970年、内戦が始まったあとも、この地は王国政府(ロン=ノル政権)軍が掌握し、タイ側から入場できていた。1975年、クメールルージュ(ポル=ポト政権)が全土を支配した時、王国政府軍が最後に降伏したのは、この地であったという。
  1978年、ベトナム軍の侵攻によってポル=ポト政権が崩壊すると、ポル=ポト派のゲリラがこの寺院を含む国境地帯に潜伏して抵抗を続けた。その後、和平協定調印などを経て1992年にいったん寺院は公開されたものの、翌年にはポル=ポト派のゲリラに再度占領された。結局1998年12月、ポル=ポト派最後の戦力といわれた数百名のゲリラは、この寺院においてプノンペン政府に投降する交渉に同意した。その年末、寺院は再度公開されるようになった。
世界遺産登録をめぐる争い
  その後、タイ側から年間約30万人の観光客が寺院の見学に来場した。カンボジア政府は、フン=セン首相と親交のあるタックシン首相派のタイ政府の支援を受けて、2008年、寺院の世界遺産登録をめざした。ところがカンボジアがUNESCOに提出した地図に、寺院の周辺の帰属未定地が含まれていたことにタイが反発したが、UNESCOは登録を決定した。ちょうどタイでは反タックシン派が勢力を増していたこともあって、寺院周辺で両軍が衝突する事態となった。
  2011年、タックシン派が政権を奪還したこともあって、両国関係は改善に向かっているが、2012年現在、タイ側から寺院への入場はできない状況だ。
An antiaircraft gun in PreahVihear, click to enlargeAn antiaircraft gun in PreahVihear, click to enlarge高射砲(第3楼門付近)。カンボジアの土地を見下ろせる戦略上の要地だ
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このページの記述は、以下のサイト、書物を参考にしました。
新版「東南アジアを知る事典」平凡社、"นำเที่ยว ๗ ปราสาทหินแห่งอีสานใต้ " สำนักพิม เมืองโบราณ(タイ語)、シーサケット県公式HP (http://www.sisaket.go.th,タイ語)、www.kapook.com(タイ語)、Tourism of Cambodia (www.tourismcambodia.com,英語)、Wikipedia(英語、タイ語)

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